本日も「京セラフィロソフィ」を読み進める。テーマは「常に謙虚であらねばならない」。 「常にみんながいるから自分が存在できるという認識のもとに、謙虚な姿勢を持ち続けることは大切です」という一節だ。
稲盛氏はここで、中国の古典を引用し、「謙のみ福を受く」――つまり、傲慢な人間は幸福を得られず、謙虚な心を持つ者だけがそれを得られると説いている。小人物ほど、誇るべきものがないからこそ威張り、ふんぞり返るものだという指摘は、痛いほど真理を突いている。少し成功しただけで天狗になり、没落していく経営者を、稲盛氏は嫌というほど見てきたのだろうし、それは現代の我々の周囲でも頻繁に見かける光景だ。
謙は益を受く
私自身、「謙虚さ」については、京セラフィロソフィに出会う以前、学生時代にビジネス書を読み始めた頃から意識してきたテーマだった。デール・カーネギーの『人を動かす』などを読み、営業職に従事する中で、その姿勢は必須であると刷り込まれてきたからだ。
また、最近学んでいる古典、特に『論語』にある「巧言令色鮮(すくな)し仁」――言葉を飾り立てる者には思いやり(仁)が少ない――という教えにも通底するものを感じていた。
稲盛氏が引用した言葉のルーツを探ると、私が「私淑の師」(書物を通じて学ぶ師)と仰ぐ安岡正篤氏に行き着く。安岡氏の著書(手元のメモによれば『百朝集』や講話録の類だろうか)には、中国古典の『書経』からの引用としてこうある。
「満は損を招き、謙は益を受く」
「満」とは傲慢の「満」。それは損失を招き、謙虚さは利益(恩恵)を受ける。古来、東洋思想において謙虚さは処世の基本原則として語り継がれてきたのだ。
懐にナイフ
しかし、今日の学びで最も深く思考が巡ったのは、20代の頃のある記憶がフラッシュバックしたからだ。 当時参加していた、ある高名な経営者が主催する勉強会でのことだ。参加者の中に私よりも若い男がいた。彼は最後の感想戦で、成功者たちが集まる場の雰囲気に圧倒されながらも、こう言った。 「皆さんは成功されているのにとても謙虚で、その姿に感銘を受けました」
誰もが頷く中、主催者の経営者だけは、その若者に鋭いフィードバックを返した。
「確かに謙虚さは大事だ。だが、それだけではダメなんだ。いざとなれば相手と刺し違えるような鋭さを持っていることが大事なのだ。だからこそ、謙虚さが『武器』になるのだ」
この言葉を聞いた時の衝撃は今でも鮮明だ。 「見た目は穏やかでも、懐には鋭いナイフを隠し持っている。いざとなれば戦える闘争心があるからこそ、表向きの謙虚さが意味を持つ」 その時、私の中で「謙虚」の定義が書き換わった。ただ単にへりくだることは、弱さの露呈でしかない。内面に圧倒的な力がみなぎっているにもかかわらず、それを理性で抑え込んでいる状態こそが、真の「謙虚」なのだと。
強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく価値がない
思考を整理していて、ある言葉に行き着いた。かつて私が耳にした「強くなければ優しくなれない」という言葉だけでは、まだ解像度が足りなかったのだ。 私のスタンスを真に表現するのは、ハードボイルド小説の探偵が残した、あの有名な台詞だ。
「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく価値がない」
この言葉こそ、稲盛氏の説く「闘争心」と「謙虚さ」の関係を完璧に言い表している。
強さ(闘争心・懐のナイフ):これはビジネスという戦場で「生き残る」ための必須条件。これがないと食い物にされ、淘汰される。
優しさ(謙虚さ・仁):これは人間として「生きる価値」そのもの。強者であっても、これがなければただの暴力装置であり、人はついてこない。
「生きる」ためには鋭さが必要だが、「生きる意味」を持つためには謙虚さが必要だ。この二つは対立概念ではなく、生存と尊厳の両輪なのだと腑に落ちた。
指針
この美学を、明日からの行動指針として刻み込む。
生存のための「強さ」: 理不尽な要求や、安易な妥協に対しては、断固として戦う姿勢を崩さない。それは自分の身を守り、会社を守るための最低条件(スペック)であると心得る。
価値のための「優しさ」: しかし、戦いに勝ったとしても、そこで相手を見下せば「生きる価値」を失う。勝利した時こそ、あるいは自分が優位な立場にいる時こそ、深く頭を垂れる。
「強さで生き残り、優しさで価値を証明する」 このパラドックスを体現できる男でありたい。
