今日、フィロソフィの「感謝の気持ちを持つ」という項目を読み進めた。そこには「自分が本日あるのは周囲の人の支援があるからこそだと感謝の気持ちを忘れないことが大事だ」と記されている。
稲盛氏が創業時に出資者への深い感謝を抱き続けていた経緯を思うと、この言葉の重みが理解できる。一方で、自力で道を切り拓いてきた自負のある創業社長や、停滞した家業を継がざるを得なかった後継者にとって、心からの感謝を持つことは容易ではないという現実もまた、私の中にはあった。
私自身、本当の意味で感謝ができるようになったのは40歳を過ぎてからだ。特に父親に対しては、長年「母のフィルター」を通してのみ彼を見てきた。母から聞かされる父の不満を自分の意見として取り込み、どこか冷ややかな視線を送り続けていた。しかし最近、自分の中に流れる父と同じような気質を認めざるを得ない場面が増え、自分でも笑ってしまうほど似ていることに気づかされた。
また、仕事の領域も変化している。対面でのコーチングという「サービス」の現場から離れ、現在はアプリ開発という「製造」に近い仕事に軸足を移している。
追憶
父との関係を振り返った時、自分がいかに一方的な解釈をしていたかに愕然とする。母の過保護な愛情に甘んじるだけでなく、もし父までもが過保護であったなら、今の自分のような「起業して自立する」という強さは育たなかったはずだ。
父の「放任」は、私に自由と責任を与えてくれた自立の土壌だったのだ。そう気づいた時、父へのわだかまりが、感謝というよりは「深い納得」に近い形で自分の中に落ちてきた。これまで抱いていた「気に入らない父親像」は、私が勝手に作り上げた幻影に過ぎなかった。
この「内面の変化」は、今のものづくりにも繋がっている。フィロソフィには「製品には作る人の和が反映される」とある。以前、マイケル・E・ガーバーから学んだ「誠意はおもてなしなどのサービスではなく、製品そのものに込めろ」という教えが、今になってようやく手触り感のある真実として迫ってくる。
アプリ開発において、ユーザーと直接言葉を交わすことはない。そこにあるのは、提供される機能と使い勝手だけだ。言葉で飾ることができないからこそ、そこにどれだけの誠意(=ユーザーの悩みを解決したいという意志)を詰め込めるかが全てなのだ。
教訓
感謝とは、単に「ありがとう」と言うことではない。自分の成り立ちにおける「不都合だと思っていた要素」の中に、今の自分を支えている根源を見出す作業だ。父の放任という名の「信頼」が、私の自立心の源泉であったように。
また、誠実さの証明は、受け手とのコミュニケーションの甘さ(サービス)に逃げてはならない。それは「製品の完成度」という、言い訳のきかない冷徹な結果の中にのみ宿る。
指針
今日から、アプリの機能を検討する際の基準を「どう見られるか」ではなく「この機能に私の誠意が宿っているか」に置く。
直接顔を合わせないユーザーに対して、画面の向こう側から私の「和」が伝わるような、徹底した作り込みを行う。サービスという言葉で自分を甘やかすのをやめ、製品という形あるもので勝負する。それが、自分をここまで育ててくれた環境や、父から受け継いだ自立の遺伝子に対する、今の私ができる最高の報恩であると信じている。
