今日の学びのテーマは「有意注意で判断力を磨く」だ。

これは中村天風の教えを稲盛和夫氏が実践していたもので、「目的を持って意識を集中させる」ことを指す。対義語は「無意注意」。ただ漫然と音が聞こえたり、なんとなく景色が見えたりしている状態のことだ。

稲盛氏はこの有意注意を徹底するため、「廊下で部下の相談に乗らない」というルールを設けていたという。多忙な稲盛氏を捕まえようと部下が廊下で声をかけるが、彼はそれを拒否した。なぜなら、移動中や他のことを考えている状態で生返事をしてしまうと、後で「言った、言わない」のトラブルになったり、誤った判断を下したりするリスクがあるからだ。

どんなに些細なことであっても、真剣に、全神経を集中させて判断を下す。その繰り返しの習慣だけが、いざという時の「即断即決」を可能にするのだ。

「適当」が常態化している自分への焦り

この逸話は、私の痛いところを正確に突いている。

正直に告白すれば、私は根が「適当」な人間だ。メールの返信、ちょっとしたシステムエラーの対応、軽い相談事などを、「これくらいでいいだろう」と流れ作業で処理してしまう癖がある。

しかし、稲盛氏のエピソードを読んで気づかされたのは、「日常の些細な判断の欠陥が、経営全体の欠陥に繋がる」という恐ろしさだ。

「廊下での立ち話」レベルの軽い判断の蓄積が、今の私の事業を作っている。もしそこに「気」が込められていなければ、その事業は砂上の楼閣のようなものだ。私はこれまで、自分の適当さを「スピード感がある」と言い換えて正当化していなかったか。それはスピードではなく、単なる「雑」であり、思考の放棄に過ぎないのだと痛感した。

直観とは「論理の蓄積」が生む超高速演算である

ここから得られる教訓は、「第六感は、五感の極限的な使用からしか生まれない」ということだ。

中村天風は「エレベーターの扉が開く前に、人が乗っているか気配で察知しろ」というトレーニングを提唱していた。一見、オカルトのように聞こえるが、これは「気を張り巡らせる」という究極の訓練だ。

私も半信半疑でこれを実践し、また趣味の登山でも同様の感覚を磨いている。山では、足元の小石一つ、風の音一つへの不注意が、滑落という死に直結する。

山で生き残るための集中力を、なぜ平地のビジネスで発揮しないのか。

天才的な経営者が持つ「直観」や「ひらめき」とは、魔法ではない。日々の些細な事象に対して、山登りのような緊張感を持って「有意注意」を注ぎ続けた結果、脳のデータベースが最適化され、瞬時に正解を導き出せるようになった状態を指すのだ。

デジタルな「廊下での立ち話」を封印する

明日から、私は意識の解像度を上げるために以下の行動をとる。

第一に、「ながらレスポンス」の禁止だ。

Slackやメールの返信を、他の作業の合間に「処理」として行わない。たとえ一行の返信であっても、一度手を止め、画面に向き合い、相手の意図を汲み取ってから「有意」に文字を打つ。デジタルの世界における「廊下での立ち話」を自分に禁じる。

第二に、「エレベーター・トレーニング」の継続だ。

日常の中に潜む「見えないものを感じる」訓練を続ける。エレベーターの中、会議室のドアの向こう、メールの文面の裏側。そこに「気」を向けることで、私のアンテナ感度を強制的に高め続ける。

適当な自分を殺し、神経の通った判断だけを積み重ねる。それが未来の私を守る唯一の盾となる。

投稿者 naokish

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です