今日の「フィロソフィ」のテーマは、チャレンジ精神についてだった。

稲盛和夫氏は、現状維持を即ち「退歩」と断じ、常に新しいことに挑み続ける姿勢を説いている。しかし、単に無鉄砲であればいいわけではない。その挑戦の裏には、緻密な計算や忍耐、努力といった裏付けが必要不可欠であるとし、この矛盾する要素を兼ね備えた状態を「知的な野蛮人(インテレクチュアル・バーバリズム)」と呼んだ。

野性の衝動(やりたいという思い)と、理性の抑制(成し遂げるための泥臭い努力)。この両輪が揃って初めて、真のチャレンジと呼べるのだという事実は、重く響く。

「飽き性」と「革新」の表裏一体

自分の過去を振り返ったとき、「現状に甘んじる」という感覚は、仕事を始めてから一度も味わったことがないように思う。むしろ、常に新しい何かを探し、見つけ、飛びつくことが、習慣というよりは「本能」として刷り込まれている。

しかし、これは裏を返せば「決まったことを淡々とやり続けるのが苦手」という致命的な弱点でもある。

現在、私は人力で行ってきたコーチングや価値提供を、AIやソフトウェアの力でシステム化することに取り組んでいる。かつての私であれば「開発などできない」と諦めていた領域だが、今はAIを駆使して自らの手でコードを書いている。客観的に見れば、これは大きな「チャレンジ」だろう。

だが、自分自身の中に「挑んでいる」という気負いはない。

ここでリチャード・ブランソンの言葉が蘇る。

「中小企業において、日常業務とイノベーションの間に境目はない」

まさにこれだ。私にとって、未知の領域(AI開発)を切り拓くことは、特別なイベントではなく「日常業務」そのものなのだ。息をするように新しいことをする。それが私の通常運転であり、逆に「昨日と同じ今日」を過ごすことの方が、私にとっては異常事態であり、苦痛なのだと気づいた。

マグロは止まると死ぬ、私は創らないと死ぬ

ここから得られる教訓は、私にとっての「安定」とは「静止」ではなく「動的平衡」であるということだ。

回遊魚(マグロ)が泳ぎ続けなければ呼吸ができずに死んでしまうように、私もまた、イノベーションを起こし続けなければ、精神的な窒息を起こしてしまう。

世の中の多くの人にとって、新しいことへの挑戦は「非日常」であり、エネルギーを要する「イベント」だ。しかし私にとっては、それが「日常」であり「呼吸」である。

だが、ここで稲盛氏の言葉が楔(くさび)として効いてくる。「野蛮人(本能的な革新)」であるだけでは不十分で、「知的(忍耐と努力)」でなければならないという点だ。

新しいことを始めるのは得意だ。しかし、それをシステムとして定着させ、地味な運用や改善(忍耐)を続けること。これこそが、私の「日常」に欠けているピースであり、真に獲得すべき「知性」なのかもしれない。

明日への指針

私は、生来の「野蛮人」としての本能(イノベーション欲)を肯定しつつ、意識的に「知性」という重石を載せる。

AIによるシステム化は、作って終わりではない。それが実際にクライアントに価値を届け、運用され続ける「仕組み」として完成するまで、泥臭くやり抜くこと。

「新しいことをやる」という快楽に逃げるのではなく、「始めたことを形にし、磨き上げる」という、私にとって最も苦しい「本当のチャレンジ」から目を背けない。

明日からの開発作業において、難局にぶつかった時こそ、「これは日常だ」と嘯(うそぶ)くのではなく、「ここからが知性の見せ所だ」と自分を鼓舞し、完成まで食らいつくことを誓う。

投稿者 naokish

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