今日は京セラフィロソフィの「信念を貫く」という項目を読み進めた。 仕事において障害に直面した際、安易な道(安き)に流れることなく、高い理想に裏打ちされた信念で突き崩していくことの重要性が説かれていた。

ここで稲盛和夫氏は、サミュエル・ウルマンの『青春』という詩を引用している。「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ」という一節はあまりに有名だが、要は年齢に関係なく、理想を失わず、安易を振り捨てる冒険心を持ち続けることこそが青春なのだという。

信念を貫くことと、若々しい精神状態(=青春)を維持することは、同義であると定義されていた。

「大義名分」なき優しさは組織を腐らせる

この「信念を貫く」という言葉を反芻していたとき、ふと松下幸之助のエピソードが脳裏をよぎった。

松下幸之助が以前、アメリカの事例として聞いた話だ。2代目、3代目の社長が会社を潰してしまう大きな要因は、「先代からいる古参社員」の扱いにあるという。かつては貢献したが、現在は機能していない彼らを、過去の功績や情にほだされて放置する。その「易きに流れる」姿勢こそが、組織の死を招くというのだ。

幸之助氏は、経営者がそのポジションを降りてもらうという非情な決断をするためには、「大義名分」が必要だと説いた。

ここで点と点が繋がった。稲盛氏の言う「信念」とは、単なる頑固さではなく、幸之助氏の言う「大義名分」のことではないか。 社長と対立する社員や、言うことを聞かない社員と対峙する際、単なる感情や地位でねじ伏せるのではなく、「なぜそれが必要なのか」という揺るぎない正義(大義名分)を持って挑めるかどうか。それが試されているのだ。

30代の「独りよがり」からの脱却

振り返れば、私の30代はその「大義名分」が欠落していたように思う。 新しいアイデアや仕組みの変更を推し進める際、私は「自分のやりたいこと」を優先し、周囲への影響を顧みずに突き進んでいた。それは「信念」ではなく、単なる「我」であった。 結果として、人が離れていったり、無用な軋轢を生んだりしたこともあっただろう。当時は「なぜ理解されないのか」と憤っていたが、それは当然の報いだったのだ。

改革や変革は、周囲にとっては痛みや負担を伴うものである。 「大義名分」とは、その痛みを伴う手術を行うための「麻酔」であり、同時に執刀医としての「資格証明書」のようなものだ。 資格なき者がメスを振るえばそれは傷害事件だが、資格(大義名分)を持った者が振るえば、それは救命措置となる。私はこれまで、無免許でメスを振り回していたのかもしれない。

論理の「旗」を掲げてから進む

明日から、何か新しい施策や変更を提案する際は、以下のプロセスを徹底する。

まず、手を動かす前に「なぜこれをやるのか」「これが会社や社会にとってどのような正義があるのか」という大義名分を言語化する。 そして、その大義名分を盾にするのではなく、関係各社や社員と対話するための「共通言語」として提示する。

易きに流れず、摩擦を恐れず、しかし独善には陥らない。 かつてのような勢いだけの「若さ」ではなく、ウルマンの詩にあるような、理性と情熱を兼ね備えた「精神の若さ」を持って、組織と向き合っていく。

投稿者 naokish

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