今日、機関誌91号に掲載されていた致知出版社・藤尾社長の「心の研究」という記事を読み進めた。同誌の創刊が昭和53年、私が生まれた年と同じであるという点に、言葉にしがたい縁を感じる。
記事の中で藤尾社長は、人生における「4つの真理」を提示していた。
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人間は必ず死ぬ。
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人生は1回限り。
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その人の人生は、その人しか生きられない。
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あなたという人間は、後にも先にもあなた一人しかいない。
お釈迦様の「天上天下唯我独尊」という言葉も、単なる使命感の話ではなく、「この宇宙においてあなたという生命は、過去にも未来にもたった一つしかない、かけがえのないものだ」という存在そのものの尊さを説くものだという解釈が示されていた。
また、詩人・坂村真民先生の逸話も強烈だった。午前0時に起床し、夜明けまで詩作に耽る。先生は「普通の人と同じように朝7時8時まで寝ていたら、人々の心に光を灯すような詩は書けない」と断じ、「創造する人間は絶えず危機の中に身を置いていなければならない」と語られたという。
4つの真理よりも、突き刺さる「3つ目」
藤尾社長が挙げた4つの真理も深く納得できるものだが、私の脳裏には田坂広志氏が説く「3つの真理」が強く共鳴した。
特に、3つ目の「人生は、いつ終わるかわからない」という視点だ。
藤尾社長の説く「あなたという人は一人しかいない」という真理は、確かに尊く、救いになる。しかし、今の私に必要なのは、救いよりも「駆動するためのエネルギー」だ。田坂氏の言う「死の不意打ち性」を突きつけられる方が、一回きりの人生をどう生きるかという問いが、より鋭利な刃物となって心に突き刺さる。
また、坂村先生の「危機の中に身を置く」という言葉には、これまでの自分の甘さを痛感させられた。稲盛和夫塾長もそうだが、圧倒的な成果を出す人々は、生活の根底にある「基準値」が全く違う。普通の人と同じリズムで生活しながら、非凡な結果を望むことの矛盾。それは、火を灯すためのエネルギーを節約しながら、大きな光を放とうとするような、物理的に不可能な願いを抱いていたのかもしれない。
「日常の電圧」が、魂の輝きを決める
今回の気づきを抽象化するならば、「創造の光度は、自らに課す負荷(電圧)に比例する」ということだ。
凡庸な日常、つまり「安全圏」に留まっている限り、そこから生まれる思考や行動もまた凡庸な域を出ない。人々の心に届くもの、あるいは歴史に刻まれるような仕事をするには、自ら進んで「平穏な眠り」を捨て、精神を研ぎ澄まさざるを得ない「危機的状況」をデザインする必要がある。
人生は一回限りであり、かつ、その幕がいつ下りるかは誰にも知らされていない。この「有限性」と「不確実性」を正しく恐れることが、今の私にとって最大のガソリンになるはずだ。
安逸な眠りを疑い、基準を再定義する
明日から、自分のタイムスケジュールと集中力の純度を再点検する。
「疲れているから」「明日があるから」という言い訳で、今日という二度とない時間を薄めていないか。坂村先生が深夜0時に起きて暗闇の中で詩を紡いだように、自分にとっての「魂のコアタイム」をどこに設定し、どれほどの緊張感を持って向き合うべきか、再定義が必要だ。
非凡な人生を歩みたいと願うなら、まずは「普通」という名の心地よい眠りから覚めなければならない。いつ終わるかわからない人生の最終盤で、「自分を使い切った」と独白できる生き方を選択する。
