今日の京セラフィロソフィのテーマは「闘争心を燃やす」。

稲盛和夫氏は、経営者には格闘技にも似た激しい闘争心が必要だと説く。

印象的だったのは、創業間もない頃のエピソードだ。社員とタクシーに乗っている際、暴走族に絡まれ、あわや乱闘という場面に遭遇した。その時、稲盛氏は怯むことなく、凄まじい気迫で相手を睨みつけたという。その迫力に押され、相手は去っていった。

ここで語られる闘争心とは、単に相手を傷つけるための暴力ではない。「自分たちが精一杯生きていくため」「自らを守り抜くため」に必要な、生命力そのものの発露である。

傘を握りしめた少年の記憶

この「睨みつけて相手を退ける」という話を聞いた瞬間、私の脳裏にある古い記憶がフラッシュバックした。

小学校時代、一時的にいじめの標的にされた時のことだ。男であれば誰しも通過儀礼のように経験することかもしれないが、私はそこでただ耐えることを選ばなかった。

多勢に無勢の相手に対し、私は家から「傘」を持ち出し、一人でやり返しに行ったのだ。

結果、それ以降いじめは完全に止んだ。暴力が良いわけではないが、明確な反撃の意思を示したことで、周囲から一目置かれる存在へと変わったのだ。高校時代に空手に打ち込んだのも、その延長線上にあったのかもしれない。

この原体験が教えてくれるのは、「平和は、戦う姿勢を見せた者にのみ訪れる」という真実だ。

大人になり、経営者となった今も、私の根底には「自尊心」がある。かつて自分をバカにした連中を見返したい、事業を大きくして認めさせたいというハングリー精神だ。これを「不純だ」と切り捨てることは簡単だが、このマグマのような感情こそが、今日まで私を突き動かしてきた事実は否定できない。

「牙」を抜かれた猛獣に魅力はない

「心を高める」「利他」といった美しい言葉を学ぶと、我々はつい「闘争心を捨てなければならない」という誤解に陥る。仏のような顔をして、全てを受け入れることが善だと錯覚してしまう。

しかし、それは違う。牙を抜かれた猛獣に、誰も魅力を感じないのと同じだ。

闘争心を失った経営者からは、人を惹きつける「オーラ」が消え失せる。もし、闘争心を完全に捨て去り、ただ心の平安だけを求めるなら、ビジネスの世界から身を引き、山奥で修行でもすればいい。

ここは経済社会というジャングルだ。

競合他社は虎視眈々とこちらのシェアを狙っている。その中で生き残り、社員や家族を守るためには、強烈な闘争心が不可欠だ。「競合に負けない」「舐められたままでは終わらない」という野性的なエネルギーがあって初めて、理念やフィロソフィといった高尚な精神が、現実世界で力を持つことができる。

闘争心とは、車で言えば「エンジン」だ。ハンドル(利他や倫理観)がいかに立派でも、エンジンが非力であれば、どこにも辿り着けない。

綺麗事の前に、まずは勝つ

明日からの経営において、自身の内にある「怒り」や「悔しさ」を否定しないことを誓う。

「見返してやる」という感情は、汚れたものではなく、強力な燃料だ。

競合に対して、あるいは市場に対して、健全な敵対心を持ち続ける。それは相手を憎むことではなく、「絶対に負けない」という自分への誓いである。

私がかつて傘を握りしめたように、ビジネスという戦場でも武器を持ち、一歩も引かない姿勢を貫く。その強さがあるからこそ、本当の意味で周囲(社員や顧客)を守れるのだということを、肝に銘じる。

投稿者 naokish

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