今日も『京セラフィロソフィ』を読み進めた。今日のテーマは「反省ある人生を送る」ということだ。稲盛和夫氏は、人格というものは不変ではなく、環境や立ち位置によって容易に変化するものであると説いている。

特に、会社が成長し、自分の地位が高くなるにつれて、かつて謙虚だった人物が傲慢な人格へと堕ちていく例は枚挙にいとまがない。これを防ぐ唯一の手段が、日々の「反省」である。自分の心の動きを客観的に見つめ直し、傲慢さの芽を摘み取ることが、リーダーとしての資質を維持する絶対条件なのだ。

「続かなかった過去」と、私に突きつけられた三つの問い

この「反省」の重要性は、私自身も痛いほど理解している。しかし、それを習慣化することの難しさに直面し続けてきたのも事実だ。かつて取り組んだ「その日の良かったことを3つ書く」というワークも、いつの間にか霧散してしまった。

なぜ続かなかったのか。それは、自分を慰めるための記録では、人格の変質を食い止める「鏡」としては機能しなかったからだ。今の私に必要なのは、心地よい振り返りではなく、自らの至らなさを鋭く突きつける「型(フォーマット)」である。

そこで、論語に記された「三省(さんせい)」を、自らの内省の軸に据えることにした。

  1. 他人のために真心を尽くしたか(忠ならざるか)

  2. 友人と交際して誠実であったか(信ならざるか)

  3. 習得していないことを教えていないか(習わざるを伝うるか)

「習わざるを伝うるか」こそが、私の最大の内省点である

この三つの中でも、特に三つ目の「習わざるを伝うるか」こそが、今の私にとって最も重く、かつ最も反省すべき急所である。

コンサルタントやコーチという、他人の人生や経営に踏み込む立場にある以上、自分が実践し、血肉化していない言葉を他者に投げかけることは、一種の欺瞞であり「虚業」に他ならない。知っているだけの知識を、あたかも体得したかのように語っていないか。自分ができていないことを、棚に上げて社長たちに強いていないか。

「言葉の重み」は、その人間の実践量に比例する。自分を大きく見せようとする傲慢さが頭をもたげたとき、この問いは鋭い刃となって私を刺すだろう。だが、その痛みこそが、私の人格を腐敗から守る唯一の「防腐剤」になるのだ。

毎夜、自分を「言行不一致」の法廷にかける

明日からは、一日の終わりに必ずこの「三省」のフォーマットに照らして自分を検閲する。

とりわけ、「今日伝えたメソッドは、私自身が誰よりも深く、泥臭く実践しているものだったか?」という問いには、一点の曇りもなく「Yes」と言えるまで自分を追い込みたい。

手帳に書くことが目的ではない。一日の終わりに、逃げ場のない鏡の前に立ち、自らの「言行不一致」を洗い出すこと。この過酷な自己点検こそが、将来の私が「成功の罠」に嵌まるのを防ぎ、真の意味でクライアントに寄り添える「タフエンジェル」であり続けるための、唯一の道だと確信している。

投稿者 naokish

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