今日は盛和塾機関誌の95巻、塾長講和「現代の経営者はいかにあるべきか」を読み込んだ。

稲盛塾長は、人類史や宇宙の誕生というマクロな視点から、現代の物質文明の脆さに警鐘を鳴らしている。かつて栄華を極めたエジプト文明が滅び、遺跡しか残らなかったように、現代社会も米国の金融危機(リーマンショック等)に見られるような「飽くなき強欲」によって崩壊の危機にあると指摘されていた。

塾長は、これからの経営には「利他の心」と「足るを知る」という概念が不可欠であると説く。特に中小企業の経営者は国家を支える柱であり、単に利益を上げるだけでなく、地域社会や人類のリーダーとして「信頼」され、さらには「尊敬」される人格者にならなければならないと締めくくられていた。

「全人類利他」への懐疑と、リーダーの真の役割

読み進める中で、二つの大きな気づきがあった。

一つ目は、「信頼」と「尊敬」の決定的な違いだ。

「信頼される」だけであれば、嘘をつかない、納期を守る、といった「マイナスを作らない(守りの)」行動で達成できる。しかし、「尊敬される」ためには、心を高め、圧倒的な実績を出し、他者にプラスの影響を与える「攻めの」姿勢が必要だ。今の自分を省みた時、信頼までは得られていても、尊敬の領域には達していないと痛感した。まだ器が足りない。

二つ目は、塾長の説く「利他の心で人類が生活すべき」という理想に対する、正直な違和感だ。

もちろん理想はそうだが、現実的に人間の本能から「欲望(利己心)」を完全に消し去ることは不可能だと私は思う。大衆の多くは、やはり本能と欲望に従って生きている。全員が聖人のようになるのを待っていては、社会は回らない。

ここで私は思考を転換した。「利他に目覚めた人間(リーダー)」の役割とは、大衆に「欲を捨てろ」と説教することではないのではないか。

むしろ、「大衆が欲望のままに動いても、結果として社会が良くなる仕組み」を作ることこそが、利他を知る者の責務ではないかと気づかされた。

欲望という「エネルギー」の配管工になる

この気づきを抽象化すると、リーダーとは「欲望の配管工」であるべきだという結論に至る。

かつてやんちゃをして悪さをしていた若者が、その爆発的なエネルギーをスポーツやビジネスに向けた途端、傑出した成果を出すことがある。エネルギー(欲望)そのものに善悪はない。問題は「ベクトル(方向)」だけだ。

未熟な人間は、欲望を自分勝手な方向に垂れ流し、周囲を汚染する。

一方で、真のリーダーは、その激流のような欲望のエネルギーを受け止め、ダムのように貯め、あるいは水路を引いて、「世の中のためになる方向」へ流れるように導線を設計する。

「欲を持つな」と抑圧すれば、活力は失われる。

「好きにしろ」と放置すれば、金融危機のような破滅を招く。

必要なのは、「君のその欲望を満たしたければ、こちらの道を走ればいい。そうすれば周りも喜び、君も富める」というルート、すなわち「仕組み」を構築することだ。

「清濁併せ呑む」システム構築への誓い

明日からの経営において、以下の指針を胸に刻む。

  1. 「尊敬」への挑戦

    「嘘をつかない」レベルの低い次元で満足せず、圧倒的な熱量と実績で「この人についていきたい」と思わせる「背中」を見せる。

  2. 欲望のベクトル管理

    社員や関係者の「稼ぎたい」「認められたい」というエゴを否定しない。そのエゴを満たすための最短ルートが「顧客貢献」や「チームワーク」になるような、評価制度やビジネスモデル(仕組み)を構築する。

  3. 理想と現実の架け橋になる

    自分自身は「利他」の心を核に持ちつつも、他者にはそれを強要せず、彼らの「利己」が社会貢献に変換される装置として機能する。

聖人君子のような顔をして説教をするのではなく、泥臭い人間の本能を直視し、それを正しき力に変えるリアリストでありたい。

投稿者 naokish

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です