今日、京セラフィロソフィの「フェアプレイ精神を貫く」を読み返した。これはフィロソフィの根幹、ど真ん中とも言える項目だ。正々堂々とビジネスを行うということは、単に法律を守るということ以上の意味を持つ。

稲盛和夫氏は著書の中で、不正の検知について興味深い指摘をしていた。「部下は上司の不正にすぐに気づくが、上司は部下の不正になかなか気づかない」という点だ。経営者が不正に気づいたときには、既に手遅れになっているケースが多い。だからこそ、下から上へ指摘できる、ガラス張りの雰囲気を作らねばならないと説かれている。

書かれている事実は「組織内の不正防止」についてだが、私が今日読み取った本質は、もっと根源的な「ルールの隙間にある倫理観」についてだった。

「ルール違反ではない」という言い訳への嫌悪

この章を読んでいて、過去のある出来事が強烈にフラッシュバックした。それは「フェアプレイ」という言葉の解像度が、私の中で一気に上がった瞬間だった。

以前、私が主催していた勉強会に、盛和塾に入られているある経営者が参加してくれたことがあった。その会には別の社長も参加していたのだが、後日、その社長が盛和塾の経営者に直接営業をかけたらしい。

ビジネスにおいて、参加者同士がどう繋がろうと自由だ。私自身、当初は「別に構わない」と考えていた。禁止するルールなど設けていないからだ。

しかし、その盛和塾の経営者は違った。営業に来た相手に対し、「まず清水さん(私)に一言断ってから来てください」と諭したというのだ。後日、本人からその報告を受けたとき、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。

彼は「縁をつないでくれた人への義理」を説いたのだ。「営業をしてはいけない」というルールはない。しかし、「紹介者をないがしろにして話を進める」ことは、人として美しくない。彼はその美学を貫いていた。

私はその時、感動すると同時に恥じ入った。当時の私は「契約に書いていないから」「禁止されていないから」という理由で、こういった目に見えない「仁義」を軽視していた節があったからだ。

「見えない門」をくぐる手続き

この経験から得た教訓は、「人の縁には『見えない門』がある」ということだ。

誰かから紹介された縁や、誰かが主催する場で出会った縁。そこには物理的な契約書はなくとも、厳然とした「門」が存在する。その門を管理しているのは紹介者だ。

「ルール違反ではないから」といって、その門の横の塀を勝手に乗り越えて侵入する行為は、たとえ法的に問題がなくとも、その人の「人間としての品格」を著しく下げる。

私は以前、この機微に鈍感だった。しかし今は違う。自分を介さずに勝手に話を進められ、事後報告すらない場合、私はその相手を「まあ、その程度の人物なのだ」と静かに判断するようになった。それは怒りではなく、一種の諦めと選別だ。

フェアプレイ精神とは、審判が見ていないところでも、自分の中の良心に従ってボールを蹴ることと同義なのだ。

「一言の重み」を自らに課す

明日からの行動指針として、私は以下を徹底する。

  1. 紹介者への事前仁義の徹底

    人から紹介された人物、あるいは人の縁で繋がった相手に何らかのアクションを起こす際は、必ず仲介者に「一言」断りを入れる。これを絶対のルールとする。

  2. 「許可」ではなく「敬意」の表明

    断りを入れるのは「許可」を得るためではない。縁を作ってくれたことへの「感謝」と「敬意」を表す儀式であると捉える。

  3. 他者の振る舞いを鏡とする

    もし、私を介さずに不義理をする人間がいたとしても、目くじらを立てて怒らない。ただ、その人の「精神のステージ」を冷静に見極める材料とし、自分自身は決してその側に回らないよう、襟を正す契機とする。

正々堂々と生きるとは、誰に見られていても恥ずかしくない振る舞いを選択し続けることだ。私は、あの時の経営者のように、背筋の伸びた商売人でありたい。

投稿者 naokish

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