今日、フィロソフィにおける「公私のけじめを大切にする」という項目を読み込んだ。
そこには、公と私(わたくし)を峻別することの重要性が説かれていた。日常の些細な気の緩みさえも自らを律し、決して卑しい人間になってはならない、またそのような人間を育ててもならないという強いメッセージだ。
具体例として挙げられていたのは、社用車の扱いや贈答品のルールだ。社用車はあくまで仕事に集中するための機能であり、役員の安楽のための道具ではない。取引先からの贈り物も、個人の所有物ではなく会社全体で共有すべきものである。
書かれていることは極めて真っ当であり、組織人としての高い倫理観を求めるものだった。
熱意の暴走とビジネスの定義
この項目を読みながら、ふと大学時代のインターンシップでの強烈な記憶が蘇った。
当時、私を含めた学生メンバーはやる気に満ち溢れていた。ある時、メンバーの一人が営業用のポスターを自腹で作成し、現場に持ち込んだことがあった。「会社に申請して許可を待つ時間が惜しい」「自分の金なら文句はないだろう」という、若さゆえの情熱とスピード感を優先した行動だった。
しかし、当時の上司(現在の私の先輩)は、その行動を厳しく諌めた。
「自腹を切って仕事をするのは、ビジネスではない」
彼はそう明言したのだ。
その言葉の真意はこうだ。ビジネスとは、会社が売り上げた利益を原資として投資を行い、さらなる利益を生み出すサイクルのことである。そこに個人の財布という「外部資金」を安易に混入させてしまえば、事業の採算性が見えなくなり、ビジネスとしての構造が破綻する。
当時、「身銭を切ること」を美学のように感じていた私にとって、これは冷水を浴びせられるような、しかし極めて論理的なパラダイムシフトであった。公私混同とは、単に会社から「奪う」こと(私利私欲)だけでなく、会社に「与えすぎる」こと(自己犠牲)もまた、ビジネスの規律を乱す行為なのだと痛感した瞬間だった。
経営者における「公私」の再定義
現在、中小企業の経営者としてこの問題を考えたとき、サラリーマン時代とは異なる難しさに直面している。
「どこまでが公(仕事)で、どこまでが私(プライベート)か」という境界線が、極めて曖昧なのだ。
経営者にとって、思考のすべては事業の発展に向かっているといっても過言ではない。
例えば、喫茶店で過ごす時間。私はそこでゲームをしているわけではない。常に本を読み、知識を吸収し、事業のアイデアを練り上げている。この時間は、明らかな「投資」であり、会社の未来を作るための「公」の時間だという認識がある。
しかし、だからといって全ての境界を溶かしていいわけではない。
これを血管に例えるならば、会社の血液(経費)と、個人の血液(私費)を混ぜ合わせるようなものだ。輸血には適合が必要なように、出所の違う金を無自覚に混ぜれば、経営判断という生体機能に異常をきたす。
「家族のための支出」は明確な「私」であるが、自分の脳内にあるグレーゾーンを放置することは、精神的な「甘え」につながるリスクを孕んでいる。
決済端末の前で、魂を問う
明日からの行動として、私は物理的なツールを用いた「意識の儀式」を徹底する。
私は現在、会社用と個人用、2枚のクレジットカードを持ち歩いている。
レジ前の決済端末にカードを差し込むあの一瞬こそが、私の「公私のけじめ」を試される裁きの場であると定義する。
喫茶店に入る時、書籍を買う時、その支出が「会社の未来への投資」であるならば、迷わず会社用のカードを切る。それが単なる「個人の慰安」であれば、個人用で切る。
この判断を無意識に行わず、毎回「これは公か、私か」と自問自答するプロセスを挟むこと。
曖昧な領域に線を引くことこそが、経営者の理性であり、品格である。
カードを選ぶその指先に、経営者としての誇りを宿らせる。それが、今の私に必要な「けじめ」の実践だ。
