月刊誌『致知』の2026年2月号を手に取った。特集は「先達に学ぶ」。 その冒頭の説明書き(リード文)において、森信三先生の言葉として紹介されていた「天の封書(てんのふうしょ)」という概念に目が留まる。
「人間は誰しも、生まれた時に天から一通の封書を渡されて生まれてくる。その封書の中には、その人がどう生きるべきかという天命が記されている。しかし、多くの人はその封書を開けることなく死んでいく」
森信三先生はかつてそのように説いたという。この一節を読んだ瞬間、私の思考は文字面を追うことを止め、自身の経営スタイルへと急激に引き戻された。
違和感・発見(Insight)
これまで私は、リーダーシップとは「スキル」や「経験」の蓄積によるものだという認識が強かった。しかし、この「天の封書」という言葉に出会って、その認識は底が浅かったと痛感させられた。
経営において最も重要な分岐点は、能力の有無ではない。この「天の封書」を開封しているか、否かだ。
封書を開封できているリーダーは強い。なぜなら、そこに書かれている「自分の人生の目的」と「会社の使命」が完全に一致しているからだ。その合致が生み出すエネルギーは強大で、無理に言葉を尽くさずとも、自然と社員へと伝播(でんぱ)していく。結果として、組織はリーダーに過度に依存することなく、自走し、一丸となって成長していく。
一方で、私の心に深く刺さったのは逆のパターンだ。 もし、封書を開封しないまま、借り物の言葉や「理屈(りくつ)」だけの理念を掲げていたらどうなるか。当然、その想いは熱を帯びず、社員には伝わらない。伝わらないからこそ、不安になり、ルールやマニュアルで社員を管理・コントロールしようとする。
これまでの自分を振り返った時、社員の自主性に任せきれず、細かいルールで縛ろうとしていた瞬間がなかったか。それはきっと、私自身がまだ「封書」の中身を完全に読み解けておらず、自信を持って「これが我々の道だ」と言い切れるだけのエネルギーを発していなかったからではないか。管理への依存は、リーダー自身の「迷い」の裏返しなのだと気づかされた。
教訓(Lesson)
リーダーシップの本質は、他者を動かす技術ではなく、自らの天命を自覚することにある。
これを「焚き火の法則」として心に刻みたい。 「天の封書」を開封することは、自分という薪に火をつけることだ。自分が燃えていれば、その熱は周囲(社員)に自然と伝わり、やがて大きな炎(組織の力)となる。 しかし、自分自身が湿っていれば(封書未開封)、いくら周囲に「燃えろ」と命令しても、あるいは「燃えるためのマニュアル」を配っても、火はつかない。結局、強制的に着火剤(ルール・管理)を投入し続けるしかなくなるのだ。
経営とは、まず「自分が燃えること」からしか始まらない。
指針(Next Action)
明日からの経営において、以下のことを誓う。
社員をルールやマニュアルでコントロールしようとする思考が頭をよぎったら、それは「赤信号」であると認識する。その時は、社員を責めるのではなく、自分の内面に立ち返るタイミングだ。 「自分は今、天の封書を読み上げているか?」「人生の目的と会社の事業は、魂のレベルでリンクしているか?」と自問する。
小手先の管理手法を磨く暇があるなら、自分の使命を掘り下げることに時間を使う。自分が熱源となり、理屈を超えたエネルギーで組織を牽引できる人間になる。
新渡戸稲造の誤算とアプリ「師導」の使命
藤原正彦氏と中西輝政氏の対談「明治を創ったリーダーたち」を読んだ。 その中で語られていた「日本人はなぜ根無し草になったのか」という議論が、私の歴史認識を根本から揺さぶった。
これまで私は、日本人が武士道精神を失ったのは、先の大戦後、GHQによる占領政策と教育改革によって強制的に骨抜きにされたからだと信じていた。しかし、対談が示す史実は違っていた。日本人の「根無し草」化は、もっと前の明治後期から始まっていたというのだ。
『武士道』を世界に知らしめた新渡戸稲造(にとべいなぞう)は、日露戦争後の1906年、第一高等学校(当時のエリート養成校)の校長に就任した際、あえて教育カリキュラムから儒教や武士道の要素を排除し、西洋の教養主義へと舵を切った。 新渡戸自身にとっては、武士道など日本人の血肉となっていて「当たり前」のことであり、学校でわざわざ教える必要はないという判断があったらしい。
しかし、その結果どうなったか。明治20年代以降に生まれた志賀直也や芥川龍之介といった世代は、武士道の素地を持たずに西洋文化を吸収し、その後の「大正デモクラシー」の個人主義的風潮へと流れていった。精神の空洞化は、戦後ではなく、この時からすでに始まっていたのだ。
違和感・発見(Insight)
「言わなくてもわかるはずだ」「日本人なら持っていて当然だ」という”暗黙の知”への過信が、継承の断絶を生むのだと痛感した。
新渡戸ほどの人物でさえ、自分が呼吸するように持っていた精神性が、次の世代には引き継がれていないことに気づけなかった。これは現代の経営や教育にも通じる恐ろしい教訓だ。「背中を見て育て」では、何も伝わらない時代が、実は100年前から始まっていたということになる。
だが一方で、現代に目を向けると、面白い潮流も感じる。西洋一辺倒の価値観に行き詰まりを感じた若者たちが、無意識のうちに「日本人のアイデンティティ」を求めているように見えるのだ。一度失われたからこそ、渇望しているのかもしれない。
私自身もその一人だ。そして、私が開発しているアプリ「SHIDO(師導)」――「師から学ぶ」「師の導き」を意図したこのツール――は、まさにこの歴史的な欠落を埋めるためのピースなのだと確信した。かつて新渡戸が「教えなくてもある」と過信して省いてしまったものを、現代のテクノロジーを使ってあえて言語化し、体系化して提供する。それが私の役割なのだ。
教訓(Lesson)
精神性というものは、放置すれば自然と枯れる植物のようなものだ。 これを「見えない根への水やり」と定義したい。
地面の上に見えている幹や枝(経済や技術)が立派でも、地中にある根(武士道や精神性)への水やり(教育・継承)を「雨が降るから大丈夫だろう」と自然任せにしてはいけない。意図的に水をやらなければ、根は驚くほど簡単に枯れ、やがて大木も倒れる。 「当たり前」を「当たり前」のままにしておくことは、衰退への第一歩である。形式知化し、システムとして残すことこそが、真の継承である。
指針(Next Action)
開発中のアプリ「SHIDO(師導)」への向き合い方を一段階引き上げる。 単なる学習ツールや効率化アプリではなく、「新渡戸稲造が残し損ねたバトンを、デジタルで再構築するプロジェクト」であると定義し直す。
日本人の精神性、先人の知恵をAIやアルゴリズムに正しく学習させ、現代人が日常的にその「根」に触れられる環境を作る。 「根無し草」の日本を終わらせる。その志を胸に、明日の開発ミーティングでは、機能の利便性だけでなく「どのような精神性がユーザーに宿るか」という視点で議論を展開する。

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