今日、京セラフィロソフィの核心とも言える「動機善なりや、私心なかりしか」という項目を読み進めた。これは、新しい事業を興そうとする際、その動機が自他共に受け入れられる客観的な「善」であるのか、あるいは単なる功名心や利己心から来るものではないかを徹底的に問うプロセスを指す。

稲盛和夫氏は、第二電電(現KDDI)という巨大な挑戦を始めるにあたり、この問いを自分自身に半年間も投げかけ続けたという。「目立ちたいのではないか」「私心が混じっていないか」――この凄まじいまでの内省を経て、ようやく「国民のために通信料を下げる」という揺るぎない大義名分を確立した。これが、いわゆる成功の原点であると説かれている。

「Whyから始める」ことへの違和感と、魂の衝動

これを読みながら、世に広く知られるサイモン・シネックの「Start with Why(なぜから始めよう)」という理論について考えを巡らせた。世間では「なぜやるのか(Why)」を最初に定義すべきだとされているが、実体験に照らし合わせると、そこには半分正解で半分は違うという感覚がある。

起業家が新しい事業を思いつく瞬間、それは決して論理的な「Why」から始まってはいないはずだ。もっと原始的で、説明のつかない「これをやりたい」「やらねばならない」という魂の震え、すなわち「What(何をやるか)」という衝動が先にあるのではないか。

稲盛氏の事例にしても、最初から完璧な大義名分があったわけではない。まず「通信事業への参入」という強烈な衝動(What)があり、そのエネルギーが本物かどうか、利己的なものではないかを確かめるために、半年かけて「物語(Why)」を練り上げていったのだ。つまり「Why」とは、最初から備わっているものではなく、内なる衝動を社会と接続するために後から磨き上げ、構築していく「翻訳作業」の結果なのだと気づかされた。

衝動という「原石」を大義という「宝石」に磨き上げるプロセス

マイケル・ガーバーから学んだ「ドリーム、ビジョン、パーパス、ミッション」の順序も、まさにこの本質を突いている。ドリームとは、誰にも説明できない個人的な衝動だ。それを周辺の人々に伝え、共鳴を起こすためには、パーパスという「物語」が必要になる。

私にとっての教訓は、「Why(なぜ)」を理論的な頭脳でひねり出すのではなく、魂の衝動を社会的な価値へと「精錬」する時間を惜しんではならない、ということだ。

たとえるなら、衝動は「剥き出しの炎」であり、大義名分(物語)はそれを安全に、かつ遠くまで届けるための「ランタン」である。 炎がなければ光は生まれないが、ランタンがなければその炎は自分を焼き尽くすか、風に吹かれて消えてしまう。ビジネスにおける大義名分とは、自分の内なる熱狂を、他者が共に歩める「光」へと変えるための器なのだ。

次世代経営インフラに宿すべき「物語」の再定義

今、取り組んでいる「次世代の経営インフラを作る」という事業。私の中に「これをやりたい」という確かな衝動はあるが、それを人々に伝えるための「大義名分(ストーリー)」は、まだ磨きが足りない。稲盛氏が半年間考え抜いたように、私も自分自身の動機を徹底的に疑い、削ぎ落とし、純化させる作業が必要だ。

明日からは、単なる機能や利便性の説明ではなく、この事業がなぜ今の社会に不可欠なのか、どのような「善」を成すのか、その物語を徹底的に練り直す。自分の衝動を独りよがりの熱狂で終わらせないために、私はもっと言葉を尽くし、内省を深めなければならない。

投稿者 naokish

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