今日、京セラフィロソフィの「純粋な心で人生を歩む」という項目を読み進めた。そこで稲盛和夫氏は、インドの古代の教えである『ヴェーダ』の一節を引用している。
「偉大な人物の行動の成功は、その行動の手段によるよりも、その人の心の純粋さによる」
何かを成し遂げようとする時、私たちはどうしても「どうやるか」という手段やテクニックに目を奪われがちだ。しかし、真に偉大な成果を収める根源は、その人の心の在り方、つまり「純粋さ」にあるという。
また、二宮尊徳の逸話も紹介されていた。彼は人を評価する際、その能力や結果以上に「その人の動機が善であるかどうか」を最も重視したという。誰が見ても正しいと言える「善」の心を持ち、純粋な動機で事にあたること。それが成功への絶対条件であると説かれている。
「純粋さ」とは清らかさではなく、現状への「憤り」である
「純粋な心」という言葉をこれまでどこか「無垢で綺麗なもの」と捉えていた自分に気づかされた。しかし、読み進めるうちに、私にとっての純粋さとは、単なる清らかさではなく、ある種の「憤(ふん)ぬ」や「発奮」に近いのではないかと感じた。
「世の中はこうあるべきではないか」「この業界の現状はおかしい」という、現状に対する強烈な違和感。それこそが、私の内側にある純粋さの正体ではないか。
例えば、現在の経営コンサルタントの在り方だ。高い報酬を取りながらも、結局はクライアントを依存させ、本質的な解決に至らないケースが多すぎる。本来、経営の悩みは解決されるべきものであり、そのための原理原則はもっと体系化され、誰もが手に届く適正な価格で提供されるべきだ。この「あるべき姿」と「現実」の乖離を埋めたいという衝動こそが、私の動機の源泉なのだと再確認した。
事業とは、社会に欠けている「パズルのピース」を埋める行為
今回の気づきを抽象化するならば、純粋な動機とは「社会の歪みを正そうとする、埋めるべきラストピースへの意志」だと言える。
自分を良く見せたい、利益を上げたいという私心(セルフ・インタレスト)ではなく、「この歪んだ構造を正さなければならない」という公憤に近い思い。これが「善」であり、稲盛氏の言う「純粋な心」に繋がるのだろう。
どれほど優れたメソッドであっても、それを動かす私の心が「手法」に依存したり、利己的な成功に傾いたりすれば、それは『ヴェーダ』の説く「手段に頼った行動」に成り下がる。私が提供すべきは仕組みという道具だけでなく、その根底にある「経営の本来あるべき姿」という純粋な信念そのものでなければならない。
「なぜこの事業をやるのか」という原点を毎朝問い直す
明日からは、仕事に着手する前に必ず「今の自分の心に、私心による曇りはないか」を自問自答する。
私が作ろうとしている「経営のインフラ」は、社長の働き方を正常化し、会社を本来あるべき姿に戻すためのものだ。その動機が「安価で質の高いものを提供し、業界の不条理を正す」という純粋な怒りと使命感に基づいているかを厳しく律していく。
テクニックや効率に逃げそうになった時こそ、この『ヴェーダ』の言葉を思い出し、心の純粋さを事業のセンターピンに据え直すことを自分に誓う。
