今日、機関誌の98巻、塾長講話第93回を読み進めた。舞台はハワイ開塾式。テーマは「なぜ経営に哲学が必要なのか」。

かつて稲盛和夫は、自らの技術を世に問うために京セラを創業したが、職人型経営の限界に直面した。そこで研究ノートの片隅に書き留めていた「人間として何が正しいか」というプリミティブな倫理観——京セラフィロソフィの原型——に立ち返ったという。これは損得ではなく、善悪を基準とするものだ。当時、社員からの反発があっても「この哲学が嫌なら辞めていい」と妥協しなかった姿勢は強烈である。

今回の講話で、稲盛和夫はフィロソフィの必要性を以下の3点に集約していた。

  1. 企業経営の規範・ルールの確立: ガバナンスやコンプライアンスという表面的な仕組み以前に、全社員が「人間としての正しさ」を共有していれば、不祥事は起きようがない。

  2. 目的・目標の明示: エベレストに登るなら、それ相応の装備と肉体が必要だ。「世界一」を目指すというビジョンが先にあり、そのためにストイックな哲学が必要となる。

  3. 「社格」の付与: 力で支配する「覇道」ではなく、徳で治める「王道」の経営。尊敬と信頼を得るためには、会社そのものに人格(社格)が必要である。

スタバの店員はなぜマニュアルに異を唱えないのか

読み進める中で、自身の提供している「仕組み経営」との接続点、そして欠落しているピースに気づかされた。

我々もクライアントに対し、ドリーム・ビジョン・バリュー(DVV)の設計を説いている。だが、「なぜそれが必要なのか」という熱量の説明が不足していたのではないか。単なるフレームワークとしてDVVを作っても、そこに魂が宿らなければ、後から活用されることもない。

特にハッとしたのは「社格」という言葉だ。

例えば、スターバックスに入社した人間が、店舗のオペレーションに対して「私のやり方は違います」と異を唱えるだろうか。まずいない。それはスタバという企業に圧倒的な「社格」があるからだ。ハワード・シュルツの哲学が浸透し、そのブランド自体に権威と信頼があるため、新人は素直にその仕組みに従う。

中小企業の社員が社長の指示に従わないのは、単に「仕組みがないから」だけではない。会社や社長自身に、従うに足る「社格」が備わっていないからだという事実に直面した。

また、稲盛和夫が「自分も門前の小僧(修行中の身)である」と語り、社員と共に学ぶ姿勢を見せている点も重要だ。社長個人の器(性格や能力)だけで経営すれば、会社は社長の器以上に大きくならない。しかし、社長の人格を超えた「普遍的な哲学」を上位概念に置くことで、組織は社長の限界を突破できる。

エベレストの装備で高尾山に登るな、逆もまた然り

日本企業の多くは「地道な努力」を美徳とするが、それは時に思考停止に陥る。「どこに登るのか」を決めずに歩き出すのは危険だ。

「努力がビジョンを作る」のではなく、「ビジョンが努力の質と量を規定する」のだ。

稲盛和夫は最初から世界一(エベレスト)を目指したからこそ、京セラフィロソフィという重装備(ストイックな哲学)が必要だった。近所の裏山に登る装備でエベレストには登れない。逆に言えば、高い目標(ワールドクラスカンパニー)を掲げるならば、それに見合うだけの「生き方の原則」や「哲学」をインストールしなければ、途中で遭難するということだ。

私はこれまで、ガーバー流の「仕組み」には注力してきたが、それを動かす人間の「OS(生き方の哲学)」については、稲盛和夫のような巨人へのリスペクトも相まって、踏み込みが甘かったかもしれない。しかし、単に「稲盛さんを学びなさい」と言うだけでは、私の存在意義がない。

「稲盛×ガーバー」の統合と体系化

明日からのアクションとして、以下の2点を自身のミッションに課す。

  1. 「Why」の言語化: クライアントに対し、DVVや仕組みを作る際、「なぜそれが必要なのか」をエベレストの比喩を用いて徹底的に説く。「継続性・拡張性・一貫性」のある会社を目指すなら、今の装備(考え方)では足りないことを自覚させる。

  2. 生き方の原則の体系化: 稲盛和夫の「哲学」とマイケル・ガーバーの「仕組み」を統合し、誰にでも実践可能な「生き方のOS」として再構築する。難解な哲学を噛み砕き、世界に通用する普遍的なメソッドへと昇華させること。

私はまだ門前の小僧である。だからこそ、偉大な先人たちの知恵を編み直し、次世代に残すための「仕組み」を作る義務がある。

投稿者 naokish

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