今日、京セラフィロソフィの「本音でぶつかれ」を読み込んだ。

そこで稲盛和夫氏は、責任ある仕事をするための条件として、建前や常識論に逃げてはならないことを挙げている。「嫌われるのを恐れるあまり、指摘せずに和を保とうとするのは大きな間違い」という言葉は、日本的な組織運営に対する強烈なアンチテーゼだ。

しかし、ここには絶対的なルールが存在する。

ただ感情のままに相手を攻撃したり、足を引っ張ったりすることは「本音」ではない。それは単なる争いだ。稲盛氏が求める本音とは、「みんなのために良かれ」という一点に立脚したものでなければならない。利己的な感情ではなく、利他的な目的意識に基づいた衝突だけが許容されるのだ。

「和」という言葉の呪縛と解釈の是正

この章を読んで、自分自身のコミュニケーションスタイルについて考えさせられた。

私は比較的、空気を読まずに本音を口にするタイプだ。時には「無神経」と評されることもあるかもしれない。だが、それが稲盛氏の言う「本音」と合致しているかといえば、疑問が残る。私の発言は、本当に「相手のため、組織のため」という純粋な動機から出ているだろうか。単に自分のフラストレーションを解消するための「放言」になってはいなかったか。

また、我々が運営している認定コーチのコミュニティについても思考を巡らせた。会社組織のように雇用関係で縛られた強固な人間関係ではないからこそ、より一層の配慮が必要だと感じていた。しかし、それは「波風を立てない」という意味ではない。

ここで、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」という言葉が脳裏をよぎる。

日本人はこの言葉を「波風を立てず、同調すること」と解釈しがちだ。しかし、この言葉の真意は、後半部分にある「何事も議論すれば解決できないことはない」という点にこそあるのではないか。

議論を避けることが「和」なのではない。徹底的に議論を尽くした先に生まれる納得感と一体感こそが、本当の意味での「和」なのだ。

私は今まで、コミュニティの空気を壊すことを恐れるあまり、この「議論のプロセス」を無意識に避けていたかもしれない。それは「和」を尊んでいるのではなく、単に「事なかれ主義」に逃げていただけだ。

膿を出さずに傷は治らない

組織における「遠慮」や「建前」は、傷口を綺麗な包帯で隠しているに過ぎない。

一見、外側からは平穏に見える(=和が保たれているように見える)が、包帯の下では化膿が進行し、やがて組織全体を腐らせてしまう。

本音でぶつかるということは、「外科手術」のようなものだ。

一時的な痛みや出血(衝突)を伴うが、患部(問題点)を根本から切除しなければ、健康な体(健全な組織)は取り戻せない。

「真の和とは、嵐が過ぎ去った後の静寂のようなものだ」

嵐(激しい議論)を避けていては、淀んだ空気が溜まる一方である。雨降って地固まるの通り、衝突を経て初めて、地盤は強固になる。

心理的安全性とは「ぬるま湯」ではない

認定コーチたちとの関わりにおいて、明日から意識を変える。

  1. 「愛のある直言」の徹底

    自分の発言が「相手の成長」や「コミュニティの発展」に基づいているか、発言する前に一瞬のフィルタを通す。その上で、嫌われることを恐れずに指摘する勇気を持つ。

  2. 議論のための「土俵」作り

    ただ「本音を言え」と精神論を説くだけでは不十分だ。雇用関係のない緩やかな繋がりだからこそ、安心して刃を交えられるルールや仕組みが必要だ。心理的安全性を「何を言っても許されるぬるま湯」ではなく、「厳しい意見も人格攻撃と見なされない安全地帯」として再定義し、文化として定着させる。

「和」を言い訳に、思考停止していた自分とは決別する。

投稿者 naokish

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