今日も京セラフィロソフィの「私心のない判断を行う」を読み込んだ。
ここでの要諦は、利己心を抑え、人間として正しいかどうかを判断基準に据えることだ。自分を無にし、自己犠牲を払ってでも物事を考える。そうして初めて、真に調和の取れた解決策が見えてくる。
稲盛和夫氏は、そのための具体的な作法として「決断の前に一呼吸置く」ことを説いている。
我々は動物的な本能を持っているため、判断を迫られた瞬間、反射的に「自分を守る(=自分が損をしない、自分が傷つかない)」ための答えを導き出してしまう。これは生命としての防衛本能だ。
だからこそ、あえて一呼吸置き、その本能的な判断を一旦脇にやる。そして「これは本当に正しいのか? 私心はないか?」と自問自答するプロセスが必要になる。
「小善」と「大善」の履き違え
この「一呼吸」というプロセスは、私が今向き合っている「トランスパーソナル・リーダーシップ」ともリンクするが、思考を深めるほどに「善」の定義の難しさにぶつかる。
例えば、仕事で壁にぶつかっている部下がいるとする。
かつての私は、「困っているなら助けてあげよう」と、その仕事を引き取って自分でやってしまうことがあった。一見、これは「善い行い」に見える。
しかし、京セラフィロソフィの文脈で言えば、これは「小善(しょうぜん)」に過ぎない。
その場しのぎで相手を楽にさせることはできても、本人の成長の機会を奪い、長期的にはダメにしてしまう可能性があるからだ。「小善は大悪に似たり」という言葉の通りである。
一方で、心を鬼にして突き放し、自力で解決させることは、その瞬間は冷たく見えるかもしれない。だが、相手の将来の自立を願うならば、これこそが「大善(だいぜん)」となる。
私が過去に陥っていたのは、相手のためと言いながら、実は「嫌われたくない」「手っ取り早く解決したい」という自分のための「小善」を選んでいただけだったのだ。
「長期的・多面的」な視座がなければ判断を誤る
では、目の前の選択が「小善」なのか「大善」なのか、どうやって見極めればよいのか。
ここで、私が私淑する安岡正篤先生の教えが強烈に響いてくる。
「物事を長期的、多面的に捉える」
この視点が欠落しているから、判断を誤るのだ。
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短期的・一面的に見れば、「手伝うこと」は優しさであり善だ。
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長期的・多面的に見れば、「手伝うこと」は相手の足腰を弱らせる毒になり得る。
「大善」を選ぶためには、今この瞬間の感情や現象だけでなく、1年後、10年後の相手の姿、そして周囲への影響までを立体的に想像する力が必要不可欠だ。
私が目指すべき「私心のない判断」とは、単に欲を捨てることではない。安岡先生の言われる通り、時間軸を長く持ち、視点を高く広く持つことで初めて見えてくる「本質的な正しさ」を掴み取ることなのだ。
「第3の案」は大善の中にこそある
安岡先生の教えと京セラフィロソフィを統合し、明日からの行動指針とする。
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「小善」への警戒
「やってあげた方が早い」「可哀想だ」という感情が湧いた時こそ、それは「小善」ではないかと疑う。その優しさは、相手の未来を奪っていないか自問する。
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時間軸を伸ばして判断する
判断に迷った時は、常に「長期的・多面的」なレンズを通す。
「今どうするか」ではなく「将来どうあるべきか」から逆算した時、本当に必要なサポート(大善)が見えてくる。
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大善に基づく「第3の案」
突き放すだけでもなく、甘やかすのでもない。長期的視点に立った時、真に相手の成長を促すための「第3の案(例えば、答えではなく問いを与える、環境だけ整える等)」を粘り強く模索する。
「小善」に逃げるな。「大善」を成すための冷徹な知性を磨く。
